最近の移民の負担は、一人の人が興したものではありません。中国大陸、台湾、アメリカの三つの地区で一斉にこのような負担が起こされました。これはかつてのないことでした。疫病が発生した後、多くの人は今は後ずさりせず、前進をすべき時期であると感じています。疫病の前にわたしたちは立ち止まるのではなく、逆により多く動くべきです。これらの現象は、神がこの時期に行動していることを示しています。
- 詩篇第68篇は神の行動の歴史です
- 神が立ち上がれば、問題は「煙が追い払われるように、ろうが火の前で溶けるように」消え去ります
- 信仰は出ることによって道ができます、神の行動があるところには「豊かな雨」があります。復興するための最上の道は移民です。
- 新しい状況は続けて古い雰囲気を置き換わります。局部的な福音化だけではなく、全面的な福音化していきます。新人の証もますます光が帯びています
- 主の回復の前途は、先人のものを受け継ぐだけではなく、新しく発展もしなければなりません。主の回復の聖徒は全世界でもっと活躍する信者となります
- バイタルグループの生活、日ごとに善きものが積み込まれます。すべての捕虜が福音の行列となり、地の果てまで至ります
- 神の行動と戦いにあずかれば、自然に神の贖い、神の供給にあずかることができます。このような移民は神の歴史を書いています
- 歩調が早まり、三両の列車が同時に到着した、主が再臨されます
- 彼らが動く時、神が前進する機会も大きくなります。なぜかわからないですが、神は民が行動することを好みます
- 行きなさい!あなたを異邦人のところに遣わす、パウロはその言葉に聞き従いました。
- 神の民としてこの際に主の行動を認識すべきでしょうか? 主の行動に加わるべきでしょうか?
詩篇第68篇は神の行動の歴史です
詩篇68篇は神の歴史について書かれていました。この歴史は神の行動の歴史です。この歴史はシナイ山から荒野へ、シオンの山へ至り、王国へと終結します。この歴史は行動する歴史です。神の歴史は神が行動する歴史です。なぜなら、神ご自身が動いており、静かにしてはいません。神は動態的な神であり、静態的な神ではありません。神が動態的であるため、彼の民も動態的です。人は止まっている状態で神を見い出すのではなく、動いている状態で神を見し出します。「荒野を乗り進まれる方の中で勝ち誇れ. ヤハが彼の御名である.彼の御前で喜び躍れ。」 [1]神は立派な場所を通ったのではなく、誰も知らない「荒野」を通られました。神の民はしばらくとどまったのち、モーセは民に「行動せよ」と言われたのではなく、神に向かって「立ち上がって」と言われました[2]。この呼びかけに対して、神の民の霊は自然に「アーメン! 立ち上がれ」と答えるでしょう! 神の行動に対して反応のある人は「義人」です。「義人たちは歓喜する.彼らは神の御前で喜び躍り、喜びをもって楽しむ」[3]。
神が立ち上がれば、問題は「煙が追い払われるように、ろうが火の前で溶けるように」消え去ります
神は立ち上がって、敵は散りました[4]。敵は思い煩いと嘘を撒き散らします。あれもこれも煩い、あれもこれもうまく行きません。考えれば考えるほど思い煩います。しかし、神が立ち上がれば、すべての思い煩いは「散り去ります」。神が立ち上がらなければ、「孤児」、「寡婦」、「孤独」、「囚われる」などを心配してたまりません[5]。神が立ち上がれば、風や火のごとく、これらの答え、未来、問題は、「煙が追い払われるように、ろうが火の前で溶けるように」消え去ります [6]。
信仰は出ることによって道ができます、神の行動があるところには「豊かな雨」があります。復興するための最上の道は移民です。
神が立ち上がると、天と地も協力して、天から豊かな雨が降り、地が震えました[7]。神の行動があるところには「豊かな雨」があります。信仰に従って前進すれば、その霊の灌漑を受けます。霊の灌漑を受けるところには、復興があります。「神よ、豊かな雨を降らしてください。あなたの嗣業の地を回復してください」。復興を得る最上の道は移民です。「神よ、あなたがご自分の民の前を出て行き、荒野を進み行かれた」。神の導きがあれば、計画をする必要がありません。計画することはまず道があって、その道に従っていくことです。信仰とは先に出てきて、そこから道ができます。以前、ある兄弟はロシアに移民したいと思っていました。彼はわたしに休暇を見つけて道調べしてくると言いましたが、結局うやむやに終わりました。アブラハムは道を探らず、彼が出て行った時どこにいくのも知りませんでした。パウロも道を探りませんでした。煙台もそうでした。イスラエル人は道を探ったゆえ、のろわれました。雨がふれば、地が震えます。地が震えれば、門が開かれ、機会もやってきます。機会は神によって震え出てくるものです。人と神が協力すれば、復興が起こります。霊の注ぎが受けられます。新しい契機が得られます。新しい出会い、開かれた門があります。
新しい状況は続けて古い雰囲気を置き換わります。局部的な福音化だけではなく、全面的な福音化していきます。新人の証もますます光が帯びています
今日は「主は命令を与えられる.喜ばしいおとずれを伝える女たちは大きな群れをなしている」ということが必要です。主の回復の中で、福音を宣べ伝えることは「小さな群」ではなく、「大きな群」にならなければなりません。すべての聖徒が機能して、福音を宣べ伝えるなら、召会は福音を宣べ伝えることがあるだけではなく、福音を宣べ伝える召会となります。新しい状況は続けて古い雰囲気に置き換わります。主の御名は大きな都市で広められるだけではなく、津々浦々まで知れ渡るようになります。局部的な福音化だけではなく、全面的な福音化があるようになります。国内外をよく行き来する人たちは福音の行動のために動いています。飛行機で見かける人は各地への移民の聖徒でした。海外の聖徒、現地の聖徒が一体となっていました。オンラインの集会、全世界が同時に行ない、言葉の障害も少なくなり、文化の隔たりも小さくなりました。主の中では交わりはますます多くなり、新人の証もますます光が帯びています。
主の回復の前途は、先人のものを受け継ぐだけではなく、新しく発展もしなければなりません。主の回復の聖徒は全世界でもっと活躍する信者となります
これは主の回復の前途です。わたしたちの次の世代は先人のものを受け継ぐだけではなく、新しく発展もしなければなりません。守るべきものを固守するだけではなく、それを大きく広める必要があります。主の回復の聖徒は全世界でもっと活躍する信者となります。わたしたちの口が雄弁であるだけでなく、足も俊足でなければなりません。すべての人の翼が銀で覆われ、羽には緑がかった黄色の金で覆われています。羽が抜けることなく、鷲のように若返り、鷲の行列となり、高く飛び上がります。兄弟たちだけではなく、姉妹たちもそうであるべきです。「喜ばしいおとずれを伝える女たち」となります[8]。インターネットを通して、あちこちに群れとなり、大きな群れが形成されます。
バイタルグループの生活、日ごとに善きものが積み込まれます。すべての捕虜が福音の行列となり、地の果てまで至ります
「主はほむべきかな.彼は日ごとにわたしたちに善きものを積み込まれる.神はわたしたちの救いである」 [9]。バイタルグループの生活には、日ごとに善きものが積み込まれます。善きものは「三日目の神ご自身がキリストの勝利の捕り物となり、わたしたちの享受となります」[10]。これらの供給を通して、わたしたちは日ごとに「死から逃れます」[11]。動けない、動きたくない者は、小言を言わず、あれこれ文句を言わずに、羊の群の中で支え、共に捕り物を享受し[12]、祈りをささげ、財物もささげます。つまりすべての人が一つの心で前進し、福音の行列となり、都市から町へ、本国から外国まで、津々浦々まで行きます。日の出の地から日が沈む地へ、東から西へ、そして、東洋、南洋、西洋、東アジア、東南アジア、インド、中東、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカまでいきます。兄弟が加わり、姉妹も加わり、そして使徒、預言者、伝道者、教える者また牧する者も加わります。昇天する救い主に打ち破られた捕虜は賜物となります[13]。すべての人が共に加わり、どこまでも続く行列となります 。「神よ、彼らはあなたの行進を、わが神、わが王の行進を聖なる所で見ました.歌う者たちが前を行き、演奏する者たちが後になり、その間で処女たちがタンバリンを鳴らす[14]。そこには、彼らを支配する小さなベニヤミンがおり、彼らの仲間たちの中にユダの首長たちがおり、ゼブルンの首長たち、ナフタリの首長たちもいる」。[15]。行列がいくところには勝利がもたらされます。万国は主を礼拝し、すべての民は主に向かって祈ります [16]。行列は人が住む全地まで行き、地の果てまで至り、最後に王国が来られます。 「昔からの天の天に乗っておられる方に歌え。見よ、彼は御声を、力強い御声を発せられる。力を神に帰せよ.彼の威光はイスラエルの上にあり、彼の力は空にある。」 [17]
夢のような話ですが、夢の話しではありません。これは神の言葉です! 天と地は過ぎ去る.しかし、わたしの言は決して過ぎ去ることはない。すべては成就されます! アーメン! アーメン!
神の行動と戦いにあずかれば、自然に神の贖い、神の供給にあずかることができます。このような移民は神の歴史を書いています
旧約の民数記は神の民の行動する歴史でした。メモリアルデーの特別集会で神の歴史は人の歴史の中で動いていると語られました。神は人の行動の中で行動します。実は詩篇第68篇の神の行動は、民数記第10章の神の民の行動に基づいて書かれています。出エジプト記では神が彼の民に対しての団体的な贖いと供給について書かれており、レビ記では神が彼の民の間でも団体的な奉仕と生活について書かれていました。これらのすべては民数記、すなわち神が彼の民を通して地上で団体的に行動し戦うためでした。神と共に行動し、戦うことを通して、神の贖いと供給の目的を完成し、わたしたちの地上での生活と奉仕を締めくくります。神の行動と戦いにあずかれば、自然に神の贖い、神の供給に与ることができます。これが正しい奉仕、正しい生活です。わたしたちは移民のために移民をするのではなく、神の行動にあずかるために移民します。このような移民は神の歴史を書いています。
歩調が早まり、三両の列車が同時に到着した、主が再臨されます
今日の世界の情勢、イスラエルの情勢、召会の発展は三つの列車のようであり、同じ終点に向かって前進しています。世界の情勢が迅速に発展しており、イスラエルの情勢もますます厳しくなっています。今日、周囲で起きていることに、もし一つでも共通点があれば、それは「歩調が早くなっている」ことになります。この二つの列車もスピードアップしており、もうすぐで駅に到着します。問題は三両目の列車の行動がどれほど早いかにかかっています。三つの列車は必ず同時に駅に到着します。その時、主が再臨されます。しかし、ダニエル書第12章4節で終わりの日には多くの人が移動すると書かれています。21世紀の世界人口の大掛かりな移動は人類歴史上では稀なことでした。中国人だけを言うと、これほど移動が激しい世紀はありませんでした。全世界の六大陸に渡り中国人がいます。先週、イスラエルのユダヤ人の兄弟から電話を受けました。報道によると今年のユダヤ人の帰還者は約5万人で、これまでの毎年の帰還人数の二倍にも及びました。これらのことから主の再臨の日が近いでことが伺えます。
彼らが動く時、神が前進する機会も大きくなります。なぜかわからないですが、神は民が行動することを好みます
エゼキエル書第1章の四つの生き物について、動的描写は立っている時の描写より多くなっています。神の民が立っている時は神の歴史を書けないとは言えませんが、すくなくとも彼らが動いている時は、神が前進する機会がより多くなります。神の行動の大車輪は、生き物に従って動きます、生き物が動けば、神の大車輪も動きます。生き物が止まれば、神の大車輪も止まります。生き物が早く走れば、神の大車輪も早く回ります。なぜかわからないですが、神は民が行動することを好みます。神は民に幕屋を建造するように命じられました。神は民の行動に参加することを喜ぶようです。神は天で民に指示をすることを満足せず、共に行動をしました。民が行かれた場所に行きます。神は「聖なる所で」行進します [18]。神が聖なる所で歩けば、人はそれを見ます[19]。神は聖なる所から出る「畏るべもの」です[20]。宮を建造する時、神は預言者を通してダビデに宮は必要ないと伝えました。幕屋を建造する時、神は自ら命令を下し、設計まで携わりました。永遠に至るまで、新エルサレムは神の幕屋です。人と神がブレンディングして、人は宮を得て、神は幕屋を得ます。それぞれ必要が満たされるでしょう。
行きなさい!あなたを異邦人のところに遣わす、パウロはその言葉に聞き従いました。
天然の中ですべての人はある場所に根付き、定住してから移動をしたがりません。ある場所で生まれ育ち、その場所で死ぬまでとどまることを望むでしょう。パウロも同様です。彼はエルサレムで祈りをしているところ、主が言われました「急ぎなさい.速くエルサレムから出なさい」[21]。パウロの答えはとても理解しにくいものでした、「主よ、わたしがあなたを信じる人たちを獄に投じ、また至る所の会堂で打ちたたいていたのを、彼らは知っています.また、あなたの証し人ステパノの血が流されている時、わたし自身もそばに立っていて賛成し、彼を殺した者たちの衣の番をしていたのです」。これはどういう意味でしょうか? もし彼は主の言葉に同意するなら、アーメンと答えればよかったでしょう。彼はエルサレムを離れることに同意するなら、あえてエルサレムで何をしてきたのかを言う必要はありませんでした。彼は明らかに彼にはエルサレムに残る資格があり、ユダヤ人に証をすることができると言っていたのです。主は彼に「行きなさい.わたしはあなたを遠く異邦人に遣わす」と言われました。パウロはこの言葉を聞き従い、福音を異邦の地へ伝わり、異邦人の使徒となりました。
神の民としてこの際に主の行動を認識すべきでしょうか? 主の行動に加わるべきでしょうか?
ブラザレンの兄弟たちは百日間祈りをした後、福音を外に宣べ伝える行動をもたらしました。このことは以降の150年に大きな影響を与えました。わたしたちのこの前の祈りは今日の神の行動を押し進めることができるのでしょうか? 空のこうのとりでさえ、自分の定められた時を知っており、山ばとも、つばめも、鶴も、その帰る時を守る.しかし、わたしの民は、エホバの規定を知らない。神の民としてこの際に主の行動を認識すべきでしょうか? 主の行動に加わるべきでしょうか?
[1]詩68:4節
[2]民10:35
[3]詩68:3
[4]詩68:1
[5]詩68:5,6
[6]詩68:2
[7]詩68:8
[8]詩68:11
[9]詩68:19
[10]詩68:19フットノート2
[11]詩68:20
[12]詩68:12
[13]詩68:18
[14]詩68:24,25
[15]詩68:27
[16]詩68:29,31
[17]詩68:33
[18]詩68:24
[19]詩68:24
[20]詩68:35
[21]徒22:18
[22]原文には「行きなさい」のみ
[23]エレ8:7