第6編 機会をとらえて、第三回目の全地24時間の見張りの祈りに入る(2020/3/1)

第28課 アンドリュー兄弟の2020年疫病期間のメッセージ集
  1. 機会をとらえる
  2. しるしを見るとき、飛び起きて、ひざまずいて祈った
  3. 今の日々は疫病の日々ではなく、機会をとらえる日々である
  4. 神が用いることのできる人たちは、神が与えた機会を絶対に失わない
  5. わたしたちが機会を失わなければ、主はどれほどのものを得ることができるのか?
  6. かしらに感覚があるのに、わたしたちの感覚が麻痺していてはいけません。わたしたちは必死になる必要があります。機会が来たらすぐにつかむべきです!
  7. わたしたちのタラントを埋める穴を掘ることで、どれほど多くの機会が失われているか知りません
  8. 主はわたしたちの間で今よりも十倍大きな働きをすることができる
  9. 時間は常にありますが、機会は常にあるのではありません
  10. もしわたしたちが機会を見分けることができれば、わたしたちは神のみこころを見分けることができます。神を知っている人たちは決して習慣的な方法で行動しないでしょう。
  11. いったん神が動かれるなら、わたしたちも動くべきです
  12. 最近、大きな変化が起きているとわたしは感じています
  13. わたしが望むのは、今から後、わたしたちがそれに沿ってさらに数段階、前進することができることです
  14. エステルは彼女が生きていることが、「このような時のためである」ことをリマインドされた(エステル4:14)
  15. 神の王国が来ますように、神のみこころが天で行なわれているように地でも行なわれますように
  16. わたしたちの祈りは止まってはいけません。今まであった見張りの祈りがさらに堅く続きますように
  17. 全世界における第三回目の24時間の見張りの祈り

機会をとらえる

新型コロナウイルスは今、全世界で蔓延しています。主は祈りを聞いてくれたと信じます。わたしたちの祈りを聞いてくださった結果、中国で蔓延が収まりした。しかし、今はまだ、見張りの祈りを継続する必要があります。「あなたがた、エホバに思い起こしていただく者たちよ、黙っていてはならない……彼に沈黙を与えてはならない」(イザヤ62:6-7)。

しるしを見るとき、飛び起きて、ひざまずいて祈った

ルカによる福音書第21章では主が再来する時のしるしを語りました。その一つはエルサレムがユダヤ人に返還されることです(24節)。他のしるしは「疫病」(11節)、「地上で諸国民が苦悩すること」(25節)も含まれています。一つ目はすでに実現しました。あとの二つは実現しつつあります。クリスチャンはその様子がどのように変化するかを静観するのではなく、「体を真っ直ぐにし、頭を上げなさい、それはあなたがたの贖いが近づいているからである」(28節)。この時点で、主がわたしたちに命じているのは、「人の子の前に立つことができるように絶えず目を覚まして、祈り求めてい」ることです(36節)。1967年、エルサレムはユダヤ人に返還された時に、リー兄弟は直ちに病院のベッドから飛び起きて、隣の若者の手を握って、ひざまずいて祈りました。今日、未曾有の国際的危機にあたって、わたしたちは同じような行動を取るべきではないでしょうか?

今の日々は疫病の日々ではなく、機会をとらえる日々である

今の日々はどうような日でしょうか? それは「疫病」と「苦悩」の日であるだけでなく、「邪悪」な日であるだけでもなく、「不健康で病的」な日(エペソ5:16)でもあります。このような日々において、わたしたちは愚かな人になってはいけません。それだけでなく、さらに機会をとらえる必要があります。エペソ人への手紙第5章16節は言います、「今の日々は邪悪ですから、時を贖い取りなさい」。ニー兄弟は言いました:

 「時」という言葉はギリシャ語にはいくつかの言い方があると指摘しています。ここでは、“カイノス(chronos)”ではなく、“カイロ(kairo)”です。この単語は「時」の意味だけではなく、ギリシャ語では他の単語と一緒に使われた時に、「機会」と訳しています。このような文字の使い方を通して、主の「機会」に対する考えを見ることができます。
わたしはいつも、わたしがどれほど多くの機会を失ってしまったかに驚きます。消極面において、多くの事柄でわたしたちは、どれほど多くの機会を失ってきたかわかりません。わたしたちが行なうことのできる多くの事柄はすべて、あまりにも容易にわたしたちによって失われています。わたしたちが救うことのできる多くの人がみな、あまりにも容易にわたしたちによって無視されています。……わたしたちは非常に多くの機会を失ってしまいました! わたしたちが将来、主とまみえる時、わたしたちは確かに多くの悔いをもってまみえるでしょう!
仕えることを学んでいる人は、昨日行なったのと同じ事を、今日行なうべきではありません。もし彼が今日も昨日と同じであれば、彼は機会を浪費してしまっているのです。もしわたしたちが、主が今日何をなさっておられるのか、あるいは今日何が起ころうとしているのかを知らないのであれば、わたしたちは機会を失っています。
わたしたちは、主がどのような偉大な事を行なわれたいのかを知りません。中国の四億七千万人の間で、クリスチャンはわずか数十万にすぎません。わたしたちはすでにどれほど多くの機会を失ってしまったかを知りません! わたしは、わたしたちが想像できる以上に神は多くの機会を与えてくださったと、信じています。もしわたしたちが、神がわたしたちに与えられるすべての機会を捕らえることができるとすれば、働きの増加は神の期待にそうことでしょう。わたしたちが働きを制限してきたがゆえに、それは神が欲しておられるほどには増加しませんでした。わたしたちは、この制限が今日ここで終わることを望みます。

 

神が用いることのできる人たちは、神が与えた機会を絶対に失わない

聖書はなぜ「時」を「機会」と訳すのでしょうか? それは、「機会」は時間の中で見いだされるものであるからです。毎日、主はわたしたちに機会を与えられます。神が用いることのできる人たちは、神が与えた機会を絶対に失いません。わたしたちが一つの事柄を終えると、別のものがわたしたちにやって来ます。第二の事柄が終わると、第三の事柄が、そして第四の事柄がやって来るでしょう。物事が続いて起こります。そしてわたしたちは、それらのどれがどれほど大事であるかを知りません。
それは、石を水に投げると、水の輪が周りへとどんどん広がっていくのと同じです。このように、機会を失わなければ、数え切れない大きな効果を得ることができます。ところが、機会を失うと、水の輪が一つしかなく、広がることができません。

わたしたちが機会を失わなければ、主はどれほどのものを得ることができるのか?

このゆえに、兄弟姉妹たち、毎日主の御前で、神が与えてくださる機会を、あなたがたが見ることができますように。将来、振り返ってやっと気づいた機会を、今、見ることができますように。今日、主の案配を見ることができるなら、それは時を贖うことを意味します。わたしたちはこのように機会を失うことをしなければ、主はどれだけのものを得ることができたでしょうか? 主の働きはどれだけ進んだことでしょう!

かしらに感覚があるのに、わたしたちの感覚が麻痺していてはいけません。わたしたちは必死になる必要があります。機会が来たらすぐにつかむべきです!

機会を失わないために、わたしたちに霊の感覚が必要です! 霊の感覚があれば、機会が来るたびに感じることが出来ます。機会を失ってはいけません。かしらに案配があるのに、わたしたちが盲目な人であってはいけません。かしらに感覚があるのに、わたしたちの感覚が麻痺していてはいけません。わたしたちは必死になる必要があります。機会が来たらすぐにつかむべきです!

わたしたちのタラントを埋める穴を掘ることで、どれほど多くの機会が失われているか知りません

一タラントの人々を地に埋めてしまい、彼らを役に立たず奉仕する資格のない人と考え、彼らに生み出す機会を与えないことは、教会にとって恐ろしい間違いであり、大きな損失です。わたしたちはお金をもうける機会を持つ前に、元金を投資しなければなりません。もしわたしたちが一タラントの人々を地に埋めるなら、そのような霊的な賜物が用いられる機会を奪ってしまいます。わたしたちは彼らの機能を停止させてしまいます。わたしたちは機会を捕らえることが決してできないでしょう。これは、わたしたちのタラントを埋める穴を掘ることです。これは愚かなことです。このことのゆえに、どれほど多くの機会が失われているか知りません。

主はわたしたちの間で今よりも十倍大きな働きをすることができる

わたしの感覚は、主はわたしたちの間で今よりも十倍大きな働きをすることができるというものです。しかし、今日わたしたちはそれをすることができません。兄弟たちよ、眠りから目を覚ましてください! これからの機会はどれだけ大きいものであるか! もしかして神の思う通りの大きい機会まで発展していくかもしれません。わたしたちは神の子供たちを導いて、神の定められた道を歩ませる必要があります。わたしたち毎日毎日、機会に乗って前の道を歩み、将来の働きを進める必要があります。
責任の兄弟は機会をつかもうとする感覚、神が与えてくださった機会を使おうとする感覚で満たされる必要があります。あなたたちの毎回の決断は正確に、目の前のことだけ考えてはいけません。そして、神が与えてくださった機会に合うかどうかを顧慮する必要があります。

時間は常にありますが、機会は常にあるのではありません

わたしたちはまだ不十分です。すべてを主の御手にゆだねることを学ぶことを願います。機会は時がくれるものですが、いつもあるとは限りません。時間は常にありますが、機会は常にあるのではありません。時間は絶えず続くものですが、機会は時にありますが、時にありません。ですから、わたしたちは機会をつかむ必要があります。今日、わたしたちが機会だと思った時、自ら進んで必死につかむ必要があります。
今日の問題は、主がわたしたちに機会を与えられないのではなく、わたしたちが機会を失うことにあります。わたしたちすべての者は、立ち上がらなければなりません。教会の責任者の兄弟たちは立ち上がらなければなりません。わたしたちは神からの機会を去らせたくありません。わたしたちは、神が常受(ウイットネス)兄弟の働きを祝福されたのを見てきました。彼の長所は、彼はどんな機会も過ぎ去らせないことです。彼が機会を失うのを見いだすことはできません。いったん機会があると、彼はそれを利用します。もしわたしたちが機会を去らせるなら、わたしたちは神の働きを制限するでしょう。

もしわたしたちが機会を見分けることができれば、わたしたちは神のみこころを見分けることができます。神を知っている人たちは決して習慣的な方法で行動しないでしょう。

神のみこころの半分以上は、神の機会の中に見いだされます。ある日、わたしたちは神の御前に立つ時、神のみこころのほとんどは神がわたしたちに与えられてきた機会の中にあることを見るでしょう。もしわたしたちが機会を見分けることができれば、わたしたちは神のみこころを見分けることができます。これは非常に厳粛な事です。ダニエル書第11章32節は言います、「自分の神を知る者たちは、力を示して事を行なう」。これは、神の人たちが新しい領域を切り開くことを意味します。わたしたちは神のみこころを知れば知るほど、ますます機会を捕らえるでしょう。ちゅうちょする人は、習慣的な生き方をします。神を知っている人たちは、決して習慣的な方法で行動しないでしょう。

いったん神が動かれるなら、わたしたちも動くべきです

兄弟たちは、新しい地を切り開くことを学ばなければなりません。いったん神が動かれるなら、わたしたちも動くべきです。わたしたちはどんな機会をもあきらめるべきではありません。一つの機会がやって来る時、わたしたちは同様にお金も来ることを見いだします。そして魂が救われ、働きは前進します。もしわたしたちがこれらの機会に少し開くことができるとすれば、それらは飛び込んできます。しかしながら、問題は、機会がわたしたちを待ってくれないことです。わたしたちが何事かをするための道を神が開いてくださる時、わたしたちはそれを行なわなければなりません。いったん時が動く時、その機会は去ってしまいます。
もしわたしたちが何事かをするため明日まで待つとすれば、わたしたちはその機会を失うでしょう。ある兄弟に対して今日語ることが有用であるかもしれません。しかしながら、もしわたしたちが明日まで待つとすれば、その機会は去ってしまうので、もはや役に立たないかもしれません。わたしたちは霊的洞察力を持たなければなりません。わたしたちは霊的視力を持たなければなりません。わたしたちは、神がわたしたちに与えてくださったそれぞれの機会を保つことができるよう、神に求めなければなりません。

最近、大きな変化が起きているとわたしは感じています

最近、大きな変化が起きているとわたしは感じています。主がわたしたちに鋭い感覚を持たせるようとしています。間違えると、神がくださった機会を失ってしまい、失ってしまうと、何十年も待たなければなりません。わたしたちは、主を愛しわたしたちに好意的であるグループに対して手を伸ばす道を見いだすべきであると信じています。わたしたちは彼らと交わりを確立し、彼らを教会にもたらすべきです。今日わたしは次のように感じているのですが、わたしたちは主を愛する人々を個人的に獲得するだけでなく、主を愛する人たちのグループを多く獲得しなければなりません。そのため、兄弟たちはみんな出て行って彼らを得ます。今までしなかったことを、今やらなければなりません。わたしたちはたくさん祈って、主の御前で考える必要があります。
このような感覚はあなたの中でさらに強くなるかどうかを考える必要があります。すべての人は、これらの感覚がわたしたちの内側で成長するかどうかを見るため、主の御前で考慮しなければなりません。一方で、わたしたちは福音を強調しなければなりません。他方で、わたしたちは霊的なグループに注意を払わなければなりません。わたしたちは個人だけでなく、グループ全体を獲得するでしょう。これは機会の中の機会です。わたしたちはこの機会を失いたくありません。わたしたちはそれを活用したいと願っています。

わたしが望むのは、今から後、わたしたちがそれに沿ってさらに数段階、前進することができることです

わたしが望むのは、今から後、わたしたちの感覚や視界から機会が一つも失われなくなることです。もしわたしたちが機会をとらえるなら、おそらく、わたしたちはそれにそってさらに数段階、前進することができるでしょう。(ニー全集、第55巻、21号)

エステルは彼女が生きていることが、「このような時のためである」ことをリマインドされた(エステル4:14)

ダニエル書第11章32節が言った時代は、反キリストが横行する時代した。このような時代に、ダニエルは、「自分の神を知る者たちは、力を示して事を行ないます」と言ったのです(11:32)。エステルの時代は神の民が命の危機にさらされた時代でした。彼女は、彼女の存在が「このような時のためである」とリマインドされました(エステル4:14)。今この人類の歴史にかつてない試練が来ている中で、神の民が、「体を真っすぐにし、頭を上げ」(ルカ21:28)、「機会をとらえ」(エペソ5:16)、「力を示して事を行ない」(ダニエル11:32)、立ち上がって祈るようになることを神がリマインドしてくださいますように!

神の王国が来ますように、神のみこころが天で行なわれているように地でも行なわれますように

神がわたしたちに教えてくださった祈りは「あなたの王国が来ますように.あなたのみこころが天で行なわれているように、地でも行なわれますように」です(マタイ6:10)。祈りは神が定められたものを変えません。祈りは何も変えません。祈りはただ神が定められたことを実現させるのに過ぎません。対照的に、祈りに欠けること、祈りがないことこそ、状況を変えるのです。神が定められたことの多くは、神の民が共に働かないがゆえに、神がこれらを遅らせて、成就させないようにしているのです。(ニー全集、第8巻、現在の証し、第一号)

わたしたちの祈りは止まってはいけません。今まであった見張りの祈りがさらに堅く続きますように

わたしたちの祈りは三回以下で終わってはいけません。三回以下にしてしまうと、敗北をもたらします(列王下13:18-19)。主はわたしたちがやもめのように常に祈り、落胆しないことを願っています(ルカ18:1)。なぜなら、これこそ彼が再来する時に地上に見いだしたい信仰であるからです(8節)。わたしたちの祈りは止まってはいけません。今まであった見張りの祈りがさらに堅く続きますように。

全世界における第三回目の24時間の見張りの祈り

「義人の祈り求めることは働いて大いに効力があります(ここの「働いて」の原文は「エネルゲオ」であり、エネルギーという言葉の元になっている言葉です。ですから、この言葉は、「義人の祈り求めることは、エネルギーにおいて大いに効力があります」と訳すこともできます)」(ヤコブ5:16)。3月31日に、全世界における24時間の団体の祈りを行います。このことを通して、たくさんの積極的なエネルギーを解放しますように。このエネルギーは祈られた人にあるだけではなく、祈っている人にもあるようになります。わたしたちの祈りは一つの国のためではなく、万国のためです。人々の命が守られるようにと祈るだけではなく、すべての国がキリストに立ち返り、時代を終わらせ、主の再来を迎えるために祈りましょう! アーメン!

 

 

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