第1編 道はあるが、誰も進んでいかない(2020/1/12)

第28課 アンドリュー兄弟の2020年疫病期間のメッセージ集

道はあるが、誰も進んでいかない

神の定められた道について私が思うのは、道は見つかったけど、誰も進んで行きません。どういうことでしょうか? 今、最も難しいのは、すでに心があり、主を追い求める人に仕えることではなく、信仰を持たない状態から信仰を持っている状態に移行できるように、誰かを獲得することです。この段階のことは誰もがうまくできていません。

私は人々にバプテスマを受けさせることについて話しているのではありません。誰もがバプテスマのデータを報告しており、場所によっては非常に標準的ですらあります。しかしバプテスマの数字の報告はほとんど意味がありません。どうしてでしょうか? バプテスマの数字がよく見えても、本当に召会生活に入り込む人は、その一部にも満たないからです。今では誰もが報告するのが好きです。主の御名を呼び求めた人の数、さらに報告するなら、バプテスマされた人の数です。例えば、今年、私たちの地方では二千人がバプテスマを受けたと言うところがあるとします。これらの数は無意味です。数年後、これらはあてにならないことがわかります。それに比べると、『朝ごとの復興』の購読者数の方が実際的です。

 

本当の難しさ:信仰を持たない状態から信仰を持っている状態に人を導くことは、成就モデルの全体に関係しています

本当の難しさは、信仰のない人をどうやって導くかということです。新しい人が救われてバプテスマを受けた後も、まだこの第1段階にあります。重点は、彼を第1段階においてどのように導くかにあります。召会の中で心のある人を顧みるのは比較的に容易です。課題は0から1に行く段階にあり、この道はすでにあると思います。現在、商工界がそれを行なっており、シンガポールは数年前にそれを行なっていました。ホームトレーニングの12課の使い方について、みんなはまだよくわかっていません。実は、12課の読み方の問題ではなく、モデル全体の問題です。

 

ホームトレーニングモデルの重点その1:契約(コミットメント)を通じて関係を構築する

今回は私がSHにいたのは、実験をしていたとも言えます。ある若者がやってきたとします、あなたはまずは何をしますか? まず、キリスト教に興味を持ってもらうことです。少し興味を持ってもらった後は、急いで主の御名を呼ばせたり、バプテスマを受けさせたりしないでください。代わりに、一緒に12回のレッスンを受けることを約束させてください。このホームトレーニングは非常に重要です。どうしてそれが重要なのでしょうか? 信仰のない人に対しては、彼にあなたと一つの約束をさせます、すなわち関係を築きます。あなたが新人にあまりにも長期の約束をさせるのなら、彼は守ることができません。ですから、あなたはこう言うことができます、「キリスト教について一緒に学びましょう。たった3か月しかかかりませんよ」。あなたは彼に約束させます。これが最も重要なことです。彼は約束したなら、それは関係を築いたことになります。次に何をするにしても、容易になります。しかし、私たちの伝統的な観念は、最初に人々を救いに導き、次に初信者成就の集会に連れて行くことです。それだけでは十分ではありません。

最も重要なことは二つあります。一つ目は「生む」ことであり、もう一つは「養う」ことです。「養う」ことには、初信者成就を導くこと、牧養することが含まれます。牧養において、初信者成就に「教える」ことが含まれます。「生養教建」の最後のステップは「建造する」ことです。「生む」ことは必ずしも「養う」ことと「教える」ことの前に置くべきとは限りません。「生む」ことについて、今の観念は、福音友人たちに主の名を呼び求めさせ、バプテスマを受けさせることです。しかし、今の問題は、多くの人々がキリスト教の背景を持っていないだけでなく、世界中の多くの人々、特にイスラム教徒が信仰を持っていないということです。

ですから、まず新人との関係を築きましょう。この関係は重要です。彼が3か月を約束するだけで十分です。短すぎると約束する意味がありません。長すぎると実行できません。3か月が比較的に適切です。したがって、ホームトレーニングは、テキストではなく、人と関係を構築することが重要です。関係が確立されると、当然のことながら、その中に「生む、養う、教える」が出てきます。

SHでかっさを施術してくれる若者がいました。私の以前の考えによると、私は間違いなく、彼にできるだけ早く主を信じるようにと促し、彼に主の名を呼び求めさせ、そしてすぐに彼にバプテスマを促します。今、私はこれをまったくしません。私は「あなたは今、主を信じていますか?」と聞きました。彼は「少し」と言いました。私はこう言いました、「こうしましょう。私はあなたがキリスト教を理解するのを助けることができます。あなたの上司は、かっさは1回だけでは足りなく、何度も何度も受け、それを蓄積しなければならないと私に言いました。あなたがキリスト教を知りたいのなら、同じように、蓄積による必要があります。3か月もらえますか?」。彼は「いいよ」と言ってくれました。これが最初の関門であり、彼が同意すれば、つなぎとめられたことになります。

彼が主の御名を呼び求めた後、私はバプテスマについてはまったく触れませんでした。最も重要なことは人間関係を築くことであることを覚えていてください。バプテスマや主の御名を呼び求めることなどによって、誰かとの関係を築くことはできません。これらは関係を築くことにおいては役に立ちません。主の御名を呼び求めたり、バプテスマを受けたりすることについて、私たちは少しやりすぎです。どういうことでしょうか? 「迷信」とは言えません。つまり、私たちはこれらに注意を払いすぎています。キリスト教が二千年の間この道をたどったということではありません。中世の教会はこの道をたどりませんでしたし、初期の教会もこの道をたどりませんでした。もちろん、「主の御名を呼び求める」ことは、ほんの少し前に回復されただけです。リー兄弟が最初に主の御名を呼び求めることを導いていた時、この実行が未信者のためであるとは言いませんでした。それは信者が主に触れやすくなるための実行です。

私はその若者とは、主の御名を呼び求めることから始めたのではなく、祈りから始めました。私は言いました:「あなたはキリスト教を知りたいのですね。キリスト教で最も重要なことは、祈りです。それはイエスの名前を含みます。では、試してみましょう!」彼は「ああ、やってみよう」と言いました。これが最初のポイントです。

 

ホームトレーニングモデルの重点その2:霊から始まり、手取り足取り訓練し、半分は生活のスキルを教え、半分は真理によって構成される

 

二点目はホームトレーニングの12課です。私たちには初信者のための資料がたくさんあります。ニー兄弟のものがあり、リー兄弟のものもあります。しかし、私たちは関係を築くことから始め、そして信仰が安定するまで、信仰のない人を牧養していることを忘れないでください。必ず彼に訓練させる必要があります。すなわち、何かを実行させることです。多くの場合、私たちは人々に初信者のレッスンを学ばせるときは、ただレッスンをこなすだけです。もちろん、レッスンはとても良いです。しかし、人が信仰を持たない状態から信仰を持っている状態に移行するのを助けたいのなら、あなたは彼が実行するのを助けなければなりません。第一に、彼はいつでも祈り、いつでも主の御名を呼び求めなければならないということです。

あなたは大人に何かをやらせるなら、彼に十分な理論的根拠を与えなければなりません。私たちは今、人々に主の御名を呼び求めるように求めていますが、理論的根拠は十分ではありません。ほとんどの聖徒たちは直接尋ねます、「あなたは主を信じたいですか? さあ、主の御名を呼び求めましょう。私に続いてください。私が呼んだ後に、あなたも呼んでください」。70%以上の人がしかたなくあなたに従っているだけだと思います。彼には理論的根拠がないのです。70%の人々はなぜ彼らが主の御名を呼び求めなければならないのかを知りません。あなたは、「心配しないで、あまり考えないで、ただ呼び求めればいいのです。」と言います。しかし、なぜ私たちは主の御名を呼び求めるのでしょうか? それは私たちが祈る必要があり、主の御名を呼び求めることが最も簡単な祈りだからです。なぜ私たちは祈る必要があるのですか?私たちには霊があるからです。ですから、まず人の霊について話さなければなりません。

リー兄弟は彼の務めの後期に、まず初めに行うのは人を救うことではないと言いました。私たちは今、人々に主を信じるように導く時は、しばしばローマ人への手紙第十章を引用します。「主の御名を呼び求める者はすべて救われる」。しかし救われることは新人にとって非常に漠然とした概念です。信仰を持っていない人は、救いについての概念は漠然としています。ですから、務めの後期にリー兄弟は言いました、未信者にとって、最初のレッスンは救いについてではなく、彼が霊を持っていることについて語るのです。私は実践すればするほど、これが正しいと感じます。

「救い」の強調はプロテスタントの後期から持ち込まれ、「即時的な救い」について語られるようになったのはジョン・ウェスレー以降のことでした。例えば、ルターは、人は信仰によって義とされると言いましたが、ルーテル教会では誰も「即時的な」を強調していませんし、長老派教会もそのようにしていません。ジョン・ウェスレーはリバイバルの運動をもたらして以来、すぐに変えて、すぐに悔い改める必要があると言うようになったのです。それ以来、「すぐに」はプロテスタント、特に福音派の間で基本的な概念になり、それは私たちの中にも深く刻み込まれています。私たちの間でも、聖徒たちをこのように訓練しています。救いはすぐのことです。時間をかける必要がありません。しかし、これはキリスト教福音派の一つの実行に過ぎず、以前はそのように行われたことはありません。ルーテル派とカルヴァン派は「即時的に転換する」べきだとは言っておらず、聖書にもこの概念がありません。聖書は、人がクリスチャンになるには時間がかかると言っています。「即時的なバプテスマ」は後に来たものでした。現在、私たちは両方を受け入れています。しかし、私たちの間では、だんだんと「即時的な悔い改め」と「即時的な救い」とを福音伝道の最初のものにしてしまいました。これはやりすぎです。このように行なっているのは、ヨーロッパのキリスト教の背景に影響を受けたからです。カトリック教会は救いについて明確ではありません。基本的な概念は、人々に神を恐れさせ、神を喜ばせ、自分の義を行ない、善行を行なうことであり、救いの真実を理解していません。それで、プロテスタント教会はこれを切り口にしました。しかし今、問題は私たちがもはやヨーロッパの世界に直面しているのではなく、イスラム教徒、無神論者、仏教徒、ヒンズー教徒を含む全世界に直面しているということです。彼らにとって、主を信じることにおいて、救いのことをはっきりさせることはそれほど重要な問題ではありません。例えば、極東で福音を宣べ伝えるとき、人々はバプテスマを受けた後、初信者グループに参加します。『初信者課程』の第1課は「救われたことを知る」ことであり、救いの根拠が述べられています。これは伝統的なキリスト教の慣習ですが、仏教徒にとって、これは最も重要なことではありません。

リー兄弟は、未信者のための最初の教えは、救いについての真理を教えることではなく、霊を知ることであると言いました。現在、伝統的なキリスト教は人々を養うことができません。それらの福音派の人は、人が救われたことを明確に知ることを非常に重要視しています。しかし、今日の人々はまったく信仰を持っていません。私たちは彼らを私たちの人に変えなければなりません。まず、彼は私がすることをしなければなりません。次に、彼は私の観念を持っていなければなりません。これら二つのことは非常に重要です。

人をある文化から別の文化に変えるのも、同じことです。例えば、ある外国人が中国人になりたいのなら、彼は中国人のように生き、中国人のように考えれば、中国人になるのです。クリスチャンになるには、一連の道理を理解させるだけでは、十分とは言えません。長い間、私たちが初信者成就を行う時、人々に十数レッスンを理解させようとします。レッスンが終了すれば、私たちは完了したと思います。しかし、教えることは結果が大事です。初信者成就の伝統的な方法では、結果はあまり良くありません。

私たちの間では、バプテスマ前の初信者成就、バプテスマ後の初信者成就、大規模な初信者成就、小規模な初信者成就などを行なってきましたが、基本的には『初信者成就』という教科書を重んじています。私たちは何十年もそれを行なってきました、そしてそれを評価するために振り返ってみると、結果はあまり満足のいくものではありません。40年以上前の香港で、福音集会では、新人が主の御名を呼び求め、バプテスマを受ければ、1名計上して、パンさき集会に招待しました。しかし、これらの人々で残ったのはとても少ないのです。後で、初信者成就を始めたら、少し良くなりました。残ったのは20%から30%ですが、まだ遠いです。各地の召会に新しい人々がいる限り、初信者成就を行なうのは行なわないよりましです。しかしどのように行なっても、同じ方法で、非常に効果がありません。残ったとしても、その一連のやり方で残ったのではなく、大半は、年長の姉妹や兄弟から個人的な牧養を受けたため、ごくわずかな実として残ったのです。30代や40代、すでに働いている人は、初信者成就集会に招くと来なくなります。とても満足のいく結果にはなりません。

だから今、私たちは昔ながらの効果のないやり方をすべて取り除き、本質だけ取り出す必要があります。それが第一に、人々をクリスチャンにしたいのなら、祈ること、聖書を読むこと、集会すること、福音を宣べ伝えることを教えなければなりません。それは子供を教えるようなものです。子供が生まれると、あなたはまず「養い」、「教え」ます。つまり、食べる、歩く、話すなど、人々がすることをするように彼を教育するのです。あなたが中国人なら、あなたの子供に中国語を話すように教えます。あなたがアメリカ人なら、彼に英語を教えます。そうすれば、子供はその文化の人になります。これが行動です。第二に、彼は観念を得る必要があります。観念はどこから来るのでしょうか? 人類六千年にわたる文化で蓄積されてくるものです。例えば、子供がライフスキルしか持っておらず、彼は食べたり、歩いたり、英語を話したりすることができます。彼はアメリカ人ですか? 違います。どうしてでしょうか? 彼は数学を知らないからです。数学はどこから来たのですか? 数学は人類六千年にわたって蓄積された知恵です。同じ理屈で、私たちが新人を成就する時も、実際には二つのことです。まず、祈る、聖書を読むこと、福音を宣べ伝えること、そして集会することを教えます。これは十分ではありませんが、彼は真理を学ばなければなりません。子供のように、数学、地理、歴史を学ばなければ、彼が現代人になることを期待することは不可能です。そのため、子供たちは学校に行き、その中から物質的なスキル、精神的または知的スキルを含むスキルを学ぶ必要があります。

 

したがって、実用的な教材セットは、その半分はライフスキルを教えること、もう半分は真理によって構成されたものです。したがって、私たちがまとめたホームトレーニングの12課は、この目的のためのものです。たとえば、第1課では、主の御名を呼ぶ求めることについて語っています。過去の私たちの失敗は、教える者がそれについて話したら終わってしまい、新人がそれを実行するかどうかに関しては、本人任せにしていることです。しかし、主の御名を呼び求めることと祈ることは一つのスキルです。それを言うだけでは意味がありません。子供が話すことを学ぶのを見守るように、毎日彼が口を開くのを見守るのです。歩くことを学ぶことも同じです。彼が歩くことができるまで、あなたは彼に段階的に教えなければなりません。これが私たちの伝統的な初信者成就における最大の失敗であり、私たちは彼らの手を取って導きませんでした。

伝統的な初信者成就の集会を参加した後でも、多くの人はまだ祈ったり、聖書を祈ったりすることができません。私は研究したことがあります。ある人は彼の妻と一緒に召会の初信者成就の集会に出てそこに座っていました。六か月後、彼には少し変化がありました。しかし、注意深く見ると、この変化は初信者成就の集会によってではなく、彼の妻によって教えられからです。私はこの問題を長い間研究し、未信者と初信者を0〜3歳の子供たちとみなして研究し、どのようにすれば、彼らを成長して大人にならせることができるかを見ました。

再びSHにいた私が顧みたあの未信者の新人に戻りましょう。私は彼に救われることの意味を伝えませんでした。私は毎日彼と十分間このレッスンを読んでから、彼に次のように伝えました、「毎朝起きたら、主の御名を10回呼び求めてください。指を折って数えてください。1回も減らしてはいけません」。ある日、彼は私に「今朝、主の御名を呼び求めてとても楽しく幸せになりました」と言いました。私は心の中で、「これは進歩だ、これは本当の進歩だと思いました」。それはかっさのようなもので、一つの動作を二時間も続けてやらないと、黒いものが浮かび上がってきません。なぜ二時間も必要なのでしょうか? 機械を変えて行なうことは可能ですか? 五分だけこすればすませられないのですか? これはもっと効率的ではありませんか? 答えは「いいえ」です。なぜなら、かっさはとても有機的なものであるからです。主の御名を呼び求めることも同じです、有機的なものです。このコースを終えるだけでなく、人々を有機的にしなければなりません。

私たちの最大の誤解は、このコースを修了さえすればいいと思うことです。このコースを修了するだけでは確固たる効果はありません。彼自身が味わい深いと感じるように行う必要があります。それは人に泳ぎを教えるようなもので、いつの日か彼は自分でそのコツに気づくでしょう。一般的に兄弟姉妹は、特に年配の世代の兄弟姉妹には、この概念がありません。多くの人がホームトレーニングはとても良いと言っており、12課のコースがうまく整理されていると思う印象を与えますが、そうではありません。この中のメッセージはすべて務めのメッセージなので、重点は方法にあります。方法を変えずに、同じコースを使っても役に立ちません。

では、私たちはイスラム教徒を得ようとしているとします。イスラム教徒は実際には非常に簡単に得ることができます。私たちは、中国人に福音を宣べ伝えることにおいて経験があります。中国人は信仰がなく、仏教を真に信じる人でさえ多くいません。中国人には神も信仰も宗教もありません。ですから3つの質問が生まれます。まず1つ目の質問は「神はいますか?」です。学校では、学生はこの質問について議論します。2つ目の質問は「なぜ聖書が中国のものを使わないのですか?」です。3つ目の質問は「なぜイエスを信じなければならないのですか?」です。孔子を信じてはいけないのですか? 私たちは今、これら3つの質問を解決するために福音を宣べ伝えています。チャン・ユラン兄弟は3冊の本を出版しました、『神はいますか?』、『聖書は神が黙示されたものですか?』、『イエスは神の子ですか?』。多くの人がそれらの内容を熟知しています。しかし、イスラム教徒は最初の二つに問題はありません。彼は神がいることを認め、聖書も認めています。あなたが彼にコーランをあきらめさせない限り問題はありません。彼は聖書に反対せず、聖書を尊重しさえします。

イスラム教徒にとっては、聖書を読むことに問題はなく、神を信じて祈ることにも問題はありません。彼の本当の問題はイエスであり、イエスについて言及するとき、彼は緊張します。実際、イスラム教徒に主を信じさせることが、中国人に主を信じさせることよりも3分の2簡単です。これは冗談ではなく、真実です。今、兄弟たちはホームトレーニングの12課をアラビア語に翻訳しました。この翻訳はイスラム教徒にとって非常に良いです、彼は神に近づきたいとも思っています。これがあれば、あなたは彼に聖書の読み方や祈り方を教えることができます。コーランを中傷しない限り、彼は喜んで受け入れます。彼には霊があります。主の御名を呼び求めることと祈ることを学び始めることによって、彼は主観的に霊に触れ、本当に主に触れます。イスラム教徒が霊に触れる時は、非イスラム教徒と異なります。イスラム教徒が霊に触れるとすぐに、不思議な夢を見ます。イエスが真の預言者であることを見て、光を見ます。これは1人か2人だけに起きたのではなく、主を信じたイスラム教徒の大半はこの経験を持っています。彼らは霊に触れるとすぐにそのような経験をします。実際、これは少しでも不思議ではありません。リー兄弟は、神は奥義的な領域にいると言った通りです。では、なぜ私たち中国人はそのような経験をしませんか? よくわかりませんが、非イスラム教徒は霊の領域から遠く離れているようで、イスラム教徒は霊の領域に近いようです。イスラム教徒が霊に触れると、彼らはイエスを見て、光を見ます。その後の内容は簡単に入ることができます。あなたは彼に聖書を読むように教えますが、バプテスマを受けるように彼に勧めたり、彼の背景を放棄するように勧めたりしてはいけません。彼の中が「発酵」すれば、彼はこれらのことを自分で放棄します。私たちが彼を説得するよりもさらに効果的です。

イスラム教徒に尋ねるべき最初の質問は「あなたは神を知りたいですか?」です。最初に彼に「さあ、主の名を呼びなさい。これが最初のステップであり、それからあなたはバプテスマを受けなければなりません。」と言わないでください。これは彼を怖がらせます。あなたはただ「あなたは神に近づきたいですか?」と言うだけです。イスラム教はそれについて彼を助ける方法はありません。アッラーは遠すぎます。そして、「神に近づきたいのなら、3か月ください。私はあなたと毎日ホームトレーニングの12課を読みます」と言います。第7週か第8週まで読むと、福音を宣べ伝えることについて話すことができます。

 

ホームトレーニングモデルの重点その3:友人のために祈り、証しをし、友人と一緒に第二世代のホームトレーニングを開始し、複製を生み出す

もう一度、私のSHでの経験に戻ります。7週目か8週目の時に、私をかっさを施術してくれた若者のタンさんに「SHに親戚はいますか?」と聞いたところ、「いいえ、家族全員が内モンゴルにいます」と言いました。実は、彼のガールフレンドも同じ職場で仕事をしていますが、彼はまだ自分がクリスチャンになったことを彼女に証ししていませんでした。私は、彼女のために祈るように、彼を励ましました。そして彼のガールフレンドの名前をナプキンに書いてもらいました。朝食を食べるとき、私はそのナプキンを見て彼女のために祈りました。彼は一緒に彼女のために祈る意欲もありました。この意欲は非常に重要であり、バプテスマよりも重要です。どうしてでしょうか? 彼は人々に証しし始めたからです。それから私は彼に言いました、「あなたは今クリスチャンです。バプテスマは礼拝堂に加わることではありません。なぜもう一つの手続きが必要なのですか? つまり、主を信じることは、あなたが心の中で信じることを意味し、バプテスマを受けることは、証しです」。彼は「わかりました」と言いました。私は彼に「あなたは人々に証し、イエスについて人々に話さなければなりません」と言いました。彼が口を開いて人々に話せば、彼の内側の成長は大きな一歩を踏み出すでしょう。それは一つの大きな関門です。私たちがどのように人々を導いても、この程度までに、彼が人に語れるまでに導く必要があります。これは大きな関門です。彼が意欲を持てば、私は彼が進歩したと言います。彼は話しに行きました、そして後で、彼のガールフレンドが彼と一緒に祈ることを拒否したと言いました。私は「それは大丈夫です、ゆっくり行きましょう」と言いました。

数週間後、彼のガールフレンドは主の御名を呼び求めただけではなく、地元の兄弟姉妹の家に導かれて、そこで集会するようになりました。私はタンさんに言いました、「私は今あなたと一緒にレッスンを受けていますが、あなたはあなたのガールフレンドと一緒にレッスンを始める必要があります」。これこそ私がやろうとしていることです。そのように今に至りましたが、私はSHを離れ、タンさんも召会生活の中で安定しており、第二世代の複製も進行中です。あとは、そこの兄弟姉妹が良いガイドなのかどうかにかかっています。私は今アメリカに戻ってきました。そして彼らは今も、歩くことを学ぶ子供に対して行なうように、一歩一歩彼を導き続ける必要があります。

 

ホームトレーニングモデルの重点その4:1対10が最も単純ですが、効果が最も低く、1対1が最も遅いのですが、最も効果的です

私の交わりのポイントは、最も遅いように見える道が最も速い道だということです。ホームトレーニングという道は非常に遅いように見えますが、実際はそれほど遅くはありません。3か月、6か月後、堅固になります。

私がかっさをしてもらった所に、ある女性の教師がいました。陳兄弟が私を紹介してくれた方です。彼女は私を招こうとしました。なぜなら私が多くの人に知られているのを知っているので、私を招くことができれば、彼女の評判もよくなると考えたのです。初対面の時、私は彼女に言いました、「あなたの中国医学がうまくいくかどうかを私は気にしません。私たち中国人は縁に注意を払っているので、中国医学も同じです。私たちクリスチャンは神のみこころに注意を払っています。問題ありません、あなたはうまく治療できなくても、私はあなたを責めません」。彼女は自信を持って言いました、「きっと良くなりまず。必ずよくなります」。私は帰る前に彼女に言いました、「私が良くならなくても、かっさで何も影響がなかったとしても、私はあなたを責めません。しかし、私はあなたの中医学診療所に影響を与えます。私に2年間くだされば、私はあなたがた20数人を、全員クリスチャンに変えます」。私に必要なのは2年だけです。私は1人ずつ伝えます。ゆっくり伝えます。福音集会を開く必要はありません。最初にタンさんに伝えました。そしてタンさんが安定するようになりました。今やリンさんがいます。私はこの2人をよくよく導けば、彼が福音を宣べ伝えます。そして中医学診療所の全員がクリスチャンになります。これは本当に起こりうるのです。

最も遅い道が最も速い道です。2年は長い期間ではありません。1人ずつ伝えれば速いのです。これがホームトレーニングの真髄です。もう一度言います。ホームトレーニングの真髄はその資料ではありません。資料を変えても同じです。これらの12課の資料は、リー兄弟が言ったことに基づいており、霊から入門し、その半分はスキルであり、半分は知識です。最も重要なことは、ホームトレーニングモデルに従って、ゆっくりと行なうことです。

2005年、私が香港で初信者成就を行なっていた時、台湾にいた兄弟に言われました、「初信者成就をやるなら、香港ではなく、台湾に来てやればいいです。700人から800人を初信者成就のために集めてあげることができます」。私は、あなたが勘違いしていると言いました。私は大きくやりたいのではなく、小さくやりたいのです。大きくすると説教になります。当時は1人ずつやろうと思っていましたが、香港で一度に10数人与えられました。それでも多すぎたと思いました。私は兄弟たちに、私は毎日この十数人の人たちを導くことはできないと言いました。あなたたちは助手になり、ガイドになり、毎日彼らと一緒にいなければなりません。

子供を大人に変えるのと同じように、一人の人を主の人に変えたいのです。私たちが学びたいのであれば、この一連の方法を学ばなければなりません。例えば、あるアフリカの兄弟は、この一連の方法を学び、自らその過程を経験したなら、帰国した後はゆっくりやればいいのです。国全体をひっくり返す必要はありません。彼は時間をかけて、最初に家族や友人に伝えます。1人がさらにもう1人に伝えれば、道はすぐに開かれます。これこそ最速の道です。例えば、今、福音を宣べ伝えるためにイランに行くなら、伝統的な方法を使って福音を宣べ伝えることは、その環境では許されません。それを行なうことはできません。

福音を宣べ伝えること、人を成就すること、これらのことはすべていいことです。私はそれらに反対したことはありません。しかし、真に人を成長させるには、できるだけ速くではなく、できるだけゆっくりやる必要があります。1対1で行なう必要があります。1対10が最も簡単ですが、効果が最も低くなります。1対1が最も遅いですが、最も速いのです。

人はとても天然的です。一度に大きなニーズがある場合は、コースと講義を案配する必要があります。たとえば、一度に100人以上が救われ、1対1で行うことができない場合は、クラスを開きます。これが間違っていると言っているのではありません。しかし、本当に繁殖し拡増したいのであれば、遅い道を歩む必要があります。最も遅い道は、実は最も速いのです。

 

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