Ⅰペテロ4:18, 16節のノート1
「しかし、クリスチャンとしてであるなら、恥じることはありません。むしろ、この名において神に栄光を帰すべきです」。
「クリスチャン」のギリシャ語はクリスチアノス(christianos)で、ラテン語からの造語です。語尾のイアノス(ianos)は、ある人に追従する者を示し、ローマ帝国の大家族に属している奴隷に適用されました。皇帝カイザル(Kaisar)を礼拝した者たちは、カイザリアノス(Kaisarianos)と呼ばれました。それはカイザルの追従者、カイザルに属する人たちを意味します。人がキリストを信じ、彼に従う者になった時、このことは帝国内のある者に、キリストを彼らのカイザルのライバルと考えさせました。そこでアンテオケで(使徒十一・二六)、彼らはキリストに従う者たちを一つのあだ名、罵倒の用語として、クリスチアノス(クリスチャン)、キリストの追従者と呼びました。ですから、この節で「クリスチャンとしてであるなら、恥じることはありません」と言っています。すなわち、信者が迫害者からクリスチャンと軽べつ的に呼ばれても、彼はそれを恥と感じるべきではなく、むしろこの名において神に栄光を帰すべきです。
今日「クリスチャン」という用語は、積極的な意義を帯びているはずです。すなわち、キリストの人、キリストと一つである者、キリストに属しているだけでなく、彼との有機的結合の中で彼の命と性質を持っており、日常生活の中で彼によって生きており、さらに彼を生きてさえいる者です。わたしたちは、そのような人であることで苦しみを受けるとしたら、恥と感じるべきではありません。むしろ、わたしたちの告白の中で、わたしたちの聖なる卓越した生活態度によって、大胆にキリストを大きく表現し、この名において神に栄光を帰す(表現する)べきです。
<抜粋>パンと魚