ルカ15:3-4, 8, 11-13, 24, 3節のノート1, 8節のノート4, 20節のノート3
「そこで、イエスはこのたとえを彼らに語って言われた、『あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいて、その一匹を失ったなら、九十九匹を荒野に残しておき、失ったその一匹を見つけるまで捜しに行かないだろうか?……また、ある女が銀貨を十枚持っていて、その一枚の銀貨を失ったなら、ともし火をともし、家を掃いて、それを見つけるまで念入りに捜さないだろうか?』……イエスはまた言われた、『ある人に二人の息子がいた。その弟が父に、「お父さん、わたしのものになる財産の分け前を下さい」と言った。そこで、父は彼の身代を彼らに分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は、何もかもまとめて、遠い国へ旅立ち、そこで放蕩に生活して、財産を浪費した……「わたしのこの息子が死んでいたのに生き返り、失われていたのに見つかったのだから」。こうして彼らは楽しみ始めた』」。
ルカによる福音書第十五章で、自分を義とするパリサイ人や聖書学者たちは、救い主が罪人と食事を共にされたことに対して、彼を罪定めしました。主は彼らに答えて、三つのたとえを語られました。それらは、神聖な三一がどのように働いて、その霊によって、御子を通して、御父へと罪人を連れ戻されるかを明らかにし、描き出しています。御子は、彼の人性の中で羊飼いとして来て、失われた一匹の羊である罪人を見つけ、家に連れて帰られました(ルカ十五・四―七)。その霊は、女が失われた一枚の貨幣を見つけるまで念入りに捜すように(八―十節)、罪人を捜されます。御父は、「ある人」が放蕩息子を受け入れるように、悔い改めて戻って来た罪人を受け入れられます(十一―三二節)。神聖な三一全体が、その罪人を尊び、彼を神に連れ戻すことに関与されます。三つのたとえはすべて、神聖な三一の愛を強調しており、悔い改めた罪人の堕落の状態や、彼の悔い改めのことにはあまり触れていません。神聖な愛は、良い羊飼いとしての御子のあわれみ深い顧みにおいて、宝を愛する者としてのその霊が細やかに捜し求めることにおいて、愛する父親としての御父が暖かく受け入れることにおいて、完全に現されています。
御子が見いだすのは罪人の外側で起こったことであり、彼の贖いの死を通して、十字架において完了されました。ここで、その霊が捜し求めるのは内側のことであり、その悔い改める罪人の内側で、彼が働かれることによって遂行されます。
放蕩息子が御父に戻ったのは、その霊が捜し求めたことの結果です(八節)。御父が戻って来た子を受け入れることは、御子の贖いの中で、御子が見いだしたことに基づいていました(四節)。
<抜粋>パンと魚