マタイ3:15-17, 15節のノート1, 16節のノート1, 2、17節のノート1
「しかし、イエスは彼に答えて言われた、『今はそうさせてもらいたい。このようにしてすべての義を成就するのは、わたしたちにふさわしいことである』。そこで、ヨハネは彼の言われるとおりにした。イエスはバプテスマされると、直ちに水から上がられた。すると見よ、天が彼に開かれた。そして彼は、神の霊がはとのように下って、彼の上に来るのをご覧になった。すると見よ、天からの声が言った、『これはわたしの子、愛する者、わたしは彼を喜ぶ』」。
義は、神が定められた道によって生き、歩み、事を行なうことによって正しくあることです。旧約では、神が与えられた律法を守ることが義でした。今や神はバプテスマのヨハネを遣わして、バプテスマを設立されました。バプテスマされるとは、神の御前に義を満たすこと、すなわち神の要求を満たすことでもあります。主イエスは、神としてではなく、典型的な人として、真のイスラエル人として、ヨハネの所に来られました。ですから彼は、この神の経綸上の実行を守るために、バプテスマされなければなりませんでした。そうでないと、彼は神に対して正しくないことになったでしょう。
主がバプテスマされたのは、神の定めにしたがって義を満たすためだけではなく、ご自身を死と復活の中に置き、彼が天然の道ではなく復活の道によって、務めをされるためでもありました。バプテスマされることによって、三年半後の事実上の死と復活の前でさえ、彼は復活の中で生き、務めをなすことができました。
主がバプテスマされて、神の義を満たし、死と復活の中に入れられることは、彼に三つの事をもたらしました。すなわち開かれた天、下った神の霊、御父の語りかけです。それは、今日のわたしたちについても同じです。
聖霊が下って来ることはキリストの油塗りであり、御父の語りかけは愛する子であるキリストへの証しでした。ここに神聖な三一の絵があります。御子は水から上がりました。その霊は御子の上に下りました。御父は御子について語られました。これは父、子、霊が同時に存在することを証明します。これは神のエコノミーを達成するためです。
<抜粋>パンと魚