ガラテヤ6:14-15, 15節のノート1
「しかし、わたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇るようなことが断じてあってはなりません。その方を通して、この世はわたしに対して十字架につけられ、わたしもこの世に対して十字架につけられてしまったのです。割礼も無割礼も重要ではありません。重要なのはただ新創造です」。
旧創造は、アダムにあるわたしたちの古い人(エペソ四・二二)、わたしたちの生まれながらの天然の人であって、神の命と神聖な性質がありません。新創造は、キリストにある新しい人(二四節)、その霊によって再生された人であり(ヨハネ三・六)、神の命と神聖な性質がその中に造り込まれており(ヨハネ三・三六、Ⅱペテロ一・四)、キリストをその構成要素としていて(コロサイ三・十―十一)、新しい構成となったものです。これは召会の性質、召会の内なる、内在的、有機的な構成要素です。こうして新創造は、神の子たちから成る、団体的で神聖な子たる身分です(ガラテヤ三・二六、四・五、七)。それはキリストの贖い、その霊の再生、神がご自身をわたしたちの中に分与されることを通して、そして、わたしたちが団体的にこの新しい人として、三一の神との有機的結合の中へと入ることを通して、生み出されました。
旧創造が古いのは、神の要素がないからです。新創造が新しいのは、神をその要素としているからです。わたしたちはまだ旧創造ですが、その霊によって歩く時(五・十六、二五)、新創造の実際を経験します。ですから、割礼も無割礼も重要ではなく、ただキリストをその命とする新創造だけが重要です。新創造であることは、その霊へとまくための理由であり、結果です(六・八)。律法を守ることと割礼を行なうことは、肉へとまくことです。それらは旧創造を変化させません。しかしその霊へとまくことは、わたしたちを新創造にします。それは、その霊によって再創造され、神聖な命によって造り変えられ、手順を経た三一の神の豊富な要素が、ご自身をわたしたちと混ざり合わせることによって構成されたものです。
<抜粋>パンと魚