啓示録3:8, 8節のノート1-3
「わたしはあなたのわざを知っている。見よ、わたしはあなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたは少しばかりの力を持っていて、わたしの言を守り、わたしの名を否まなかったからである」。
ダビデのかぎを持つ方、開けばだれも閉じる者がない方として、主は回復の召会に、だれも閉じることのできない開いている門を与えられました。
「少しばかりの力」は、主を喜ばせるのは彼のために多くのことをすることではなく、わたしたちが持っているものをもって、彼のために最善を尽くすことであることを示しています。
主の言葉は主の表現です。そして主の御名は主ご自身です。背教の召会は、主の言葉からそれて異端的になりました。改革の召会はある程度まで主の言葉を回復したのですが、自分自身を他の多くの名で呼ぶことによって、主の御名を否みました。例えば、ルーテル派、ウエスレー派、聖公会、長老派、バプテスト派などのようにです。回復の召会は、主の言葉に全面的に戻っただけでなく、主イエス・キリストの御名以外のすべての名を放棄しました。回復の召会は絶対的に主に属し、いかなる宗派(いかなる名)とも関係がありません。主の言葉からそれることは背教です。召会を主の御名以外のどんな名で呼ぶことも霊的姦淫です。清純な処女として、キリストに婚約した召会(Ⅱコリント十一・二)は、夫の名以外のどんな名も持つべきではありません。他のすべての名は神の目に憎むべきものです。回復の召会生活には、バラムの教えも(啓二・十四)、ニコライの者の教えも(十五節)、イゼベルの教えも(二〇節)、奥義的なサタンの教えもありません(二四節)。ただ純粋な主の言葉があるだけです。回復の召会には宗派(名)がありません。ただ主イエス・キリストの唯一の御名があるだけです。御言葉から異端にそれること、キリストの御名以外の多くの名を高く上げることは、堕落したキリスト教の最も際立ったしるしです。すべての異端と伝統から純粋な言葉に戻ることと、他のあらゆる名を放棄して主の御名を高く上げることは、回復の召会における最も感動を与える証しです。それゆえに、主の回復の召会には、主の啓示と臨在があり、生き生きと全き光と命の豊かさをもって、主を表現するのです。
<抜粋>パンと魚