Ⅱコリント6:8-10、8節のノート3, 9節のノート1-3, 10節のノート1-3
「栄誉と恥辱により、悪評と好評により、神の奉仕者として自己推薦しているのです。わたしたちは惑わす者のようでも、真実であり、知られていないようでも、よく知られており、死にかかっているようでも、見よ、生きており、懲らしめられているようでも、死に渡されておらず、悲しんでいるようでも、常に喜んでおり、貧しいようでも、多くの者を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを所有しています」。
使徒は、ユダヤ教宣教者や他の宗教と哲学の人々の目には、惑わす者のようですが、神の真理を愛する人々の目には、真実です。自分たちを誇示しないという意味では知られていないようですが、神の真理を証しするという意味ではよく知られていました。
彼らは苦しい迫害の中で死にかかっているようですが(Ⅱコリント一・八―十、四・十一、Ⅰコリント十五・三一)、主の復活の中で生きていました(Ⅱコリント四・十―十一)。反対者の浅薄な理解によれば、懲らしめられているようですが、主の主権の顧みの中にあったので、死に渡されてはいませんでした。
使徒は、諸召会の消極的な状況によって、悲しんでいるようでも(Ⅱコリント十一・二八)、十分な恵みとキリストの復活の命の中で、常に喜んでいました(十二・九―十)。物質的な面では貧しいようですが、霊的な富においては多くの人を富ませていました(エペソ三・八)。人の面では何も持たないようですが、神聖なエコノミーの中ではすべてのものを所有していました。
<抜粋>パンと魚