マタイ11:28-30
「すべて労苦し重荷を負っている者は、わたしに来なさい。そうすれば、わたしはあなたがたに安息を与える。わたしは心の柔和なへりくだった者であるから、わたしのくびきを負い、わたしから学びなさい。そうすれば、あなたがたは魂に安息を見いだすであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
29節のフットノート2、3、30節のフットノート1
主のくびきを負うとは、父のみこころを取ることです。それは、律法や宗教の義務によって規正されたり制御されたりすることでも、何かの働きのために奴隷にされることでもありません。それは、父のみこころによって拘束されることです。主はそのような生活を生き、御父のみこころ以外の何も顧慮されませんでした(ヨハネ四・三四、五・三〇、六・三八)。彼はご自身を、完全に父のみこころに服従させました(マタイ二六・三九、四二)。ですから、主はご自身から学ぶようにとわたしたちに求められます。
主はすべての反対の中で柔和であり、すべての拒絶の中で心のへりくだった方でした。彼はご自身を完全に父のみこころに服従させ、ご自分のために何もしようとはせず、ご自分のために何かを獲得しようと期待されませんでした。ですから、状況がどうであっても、彼は心の中に安息を持っておられました。彼は御父のみこころで完全に満足しておられました。
主のくびきは父のみこころであり、彼の荷は父のみこころを遂行する働きです。そのようなくびきは負いやすく、苦しくはありません。またそのような荷は軽く、重くはありません。
<抜粋>パンと魚