マタイ9:12-13, 12節のノート1, 13節のノート2
「イエスはこれを聞いて言われた、『丈夫な人には医者はいらない。いるのは病んでいる人である。「わたしが望むのはあわれみであって、いけにえではない」とはどういう意味なのか、行って学んできなさい。わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである』」。
王国のために従うよう人々を召すことで、天の王国の王は、裁判官としてではなく、医者として務めをされました。裁判官の裁きは義にしたがって行なわれますが、医者のいやしはあわれみと恵みにしたがって行なわれます。彼が天の王国の民とした人たちは、らい病の人、中風の人、熱病の人、悪鬼にとりつかれた者、あらゆる種類の病人たち、軽べつされた取税人、罪人たちでした(マタイ八・二―九・十一)。彼がこれらのあわれな人たちを裁判官として訪れたとしたら、すべての人は罪に定められ、退けられたでしょう。そうであれば、彼の天の王国の民として資格づけられ、選ばれ、召される者は、一人もなかったでしょう。しかしながら、彼は医者として仕えるために来られました。そして彼らをいやし、回復し、生かし、救われました。それは、彼らが新しい天的市民として再構成され、彼が彼らをもって、この堕落した地上に彼の天的王国を設立するためでした。
あわれみは、人が神から受ける恵みの一部分です。しかし自分を義とする者たちは、神からあわれみや恵みを受けることを好みません。彼らは神にいけにえを供えたり、神に何かをささげたりすることを好みます。これは、神のエコノミーにおける神の道と対照的です。神があわれな罪人にあわれみを示すことを願われるように、わたしたちにも、他の人に愛の中であわれみを示すことを、神は願っておられます(ミカ六・六―八、マルコ十二・三三)。
<抜粋>パンと魚