ピリピ1:19, 19節のノート4
「というのは、あなたがたの祈り求めることと、イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給を通して、このことがわたしにとって救いとなることを知っているからです」。
神、キリスト、その霊についての聖書の啓示は前進しています。その霊は最初に、創造と関係するとき、神の霊として述べられています(創一・二)。次に、神が人と関係する文脈の中で、エホバの霊として(士三・十、サムエル上十・六)、キリストの受胎と誕生と関係する時、聖霊として(ルカ一・三五、マタイ一・二〇)、主の人としての生活と関係する時、イエスの霊として(使徒十六・七)、主の復活と関係する時、キリストの霊として(ローマ八・九)、そしてピリピ人への手紙第一章十九節では、イエス・キリストの霊として述べられています。
イエス・キリストの霊は、ヨハネによる福音書第七章三九節に述べられている「その霊」です。これは単に、主が受肉される前の神の霊ではなく、主が復活された後の神の霊であり、主の受肉(人性)、十字架の下での人の生活、十字架、復活と調合された神性を伴う聖霊です。出エジプト記第三〇章二三節から二五節の聖なる塗り油、すなわちオリブ油と四種類の香料との調合物は、神のこの混ざり合った霊の完全な予表でした。その方は今や、イエス・キリストの霊です。ここでは、イエスの霊(使徒十六・七)でなく、キリストの霊(ローマ八・九)でもなく、イエス・キリストの霊です。イエスの霊は、おもに主の人性と人の生活と関係があります。キリストの霊は、おもに主の復活と関係があります。ピリピ人への手紙第二章五節から八節に描かれている主の人性を経験するために、わたしたちはイエスの霊を必要とします。第三章十節に述べられている主の復活の力を経験するためには、キリストの霊が必要です。使徒は彼の苦難の中で、主の人性における苦難と、主の復活の両方を経験しました。ですから、その霊は彼にとって、イエス・キリストの霊、すなわち、三一の神の調合された、すべてを含む、命を与える霊でした。使徒のような、キリストの人としての生活と復活を経験し享受している人にとって、そのような霊は、満ちあふれる供給を持ち、満ちあふれる供給でさえあります。最終的に、この調合されたイエス・キリストの霊は、神の七つの霊となります。この方は、神の御座の前にある七つのともし火であって、地上で神の行政を執行し、召会に関する神のエコノミーを成就します。彼はまた、小羊の七つの目であって、彼であるすべてを、召会の中へと注入されます(啓一・四、四・五、五・六)。
<抜粋>パンと魚