Ⅰヨハネ1:9, 9節のノート2, 5
「もし、わたしたちが自分の罪を告白するなら、神は信実で義であられるので、わたしたちの罪を赦し、すべての不義からわたしたちを清めてくださいます」。
神は彼の言葉において信実であり(Ⅰヨハネ一・十)、御子イエスの血において義です(七節)。神の言葉は、神がキリストのゆえにわたしたちの罪を赦し(使徒十・四三)、またキリストの血が神の義の要求を満たして、神がわたしたちの罪を赦すことができるようにしたことを告げています(マタイ二六・二八)。わたしたちが自分の罪を告白するなら、神は彼の言葉にしたがって、イエスの血による贖いに基づいて、わたしたちを赦されます。なぜなら、神は彼の言葉において信実でなければならず、イエスの血において義でなければならないからです。そうでないと、神は不信実となり、不義となるでしょう。神の赦しには、わたしたちの告白が必要です。神との交わりを回復するためには、神のそのような赦しは条件付きであり、それはわたしたちの告白にかかっています。
「不義」と「罪」は同意語です。すべての不義は罪です(Ⅰヨハネ五・十七)。両方ともわたしたちの間違った行為を言います。「罪」は、神と人に対するわたしたちの間違った行為のとがめを示します。「不義」は、わたしたちの間違った行為の汚れを示し、それは神と人に対して正しくないようにします。とがめは神の赦しを必要とし、汚れは神の清めを必要とします。神の赦しと神の清めは、神との中断された交わりを回復するために必要です。それは、わたしたちが、とがめのない正しい良心をもって(Ⅰテモテ 一・五、使徒二四・十六)、妨げのない交わりの中で、彼を享受するためです。
<抜粋>パンと魚