ヨハネ4:23-24, 24節のノート4, 5
「しかし、真の礼拝者たちが、霊と真実の中で父を礼拝する時が来る。そしてそれは今である。父はそのように彼を礼拝する者を、捜し求めておられるからである。神は霊であるから、彼を礼拝する者は、霊と真実の中で礼拝しなければならない」。
「霊と真実の中で礼拝し」の霊は、わたしたちの人の霊です。予表によれば、神を礼拝するには、神がご自身の住まいのために選ばれた場所で、ささげ物をもってでなければなりません。神がご自身の住まいのために選ばれた場所とは、人の霊を予表しており、今日、人の霊が神の住まいです(エペソ二・二二)。ささげ物は、キリストを予表します。キリストは、すべてのささげ物の成就、実際であって、それをもって人は神を礼拝しました。ですから、主がその女に、霊と真実の中で霊なる神を礼拝するように教えた時、それは、彼女が霊なる神に触れるには、特定の場所ではなく、彼女の霊の中で、ささげ物をもってではなく、キリストを通してであることを言われたのです。実際なるキリストがすでに来られたのですから(ヨハネ四・二五―二六)、すべての影や予表は過ぎ去りました。
ここの「真実」は、神聖な実際が、神への真の礼拝のために、人の信実と誠実(不道徳なサマリア人の礼拝者の偽善と反対―四・十六―十八)となったことを意味します。神聖な実際はキリスト(彼は実際―十四・六)であり、彼は神を礼拝するための旧約におけるすべてのささげ物の実際(一・二九、三・十四)、生ける水の泉、命を与える霊です(四・七―十五)。彼の信者たちはそれにあずかり、それを飲みます。それは、彼らの内側で実際となり、そして最終的に彼らの信実と誠実になります。その中で、彼らは神の求めておられる礼拝をもって、神を礼拝します。
<抜粋>パンと魚