Ⅰコリント2:7, 9-10, 10節のノート1-3
「わたしたちが語るのは、奥義の中の神の知恵、すなわち隠されてきた知恵です。それは、わたしたちの栄光のために、もろもろの時代の前に神があらかじめ定められたものです……このように書かれているとおりです、『目が見たこともなく、耳が聞いたこともなく、人の心に思い浮かんだことのないものを、神はご自身を愛する者たちのために備えてくださった』。神はわたしたちに、その霊を通してそれらを啓示されました。その霊はすべての事柄、神の深みさえも探られるからです」。
啓示は教えとは違います。教えることは、わたしたちの思いと関係があり、啓示することは、わたしたちの霊と関係があります。神がわたしたちのために備えられた、深く隠された事柄を認識するためには、わたしたちの思いよりも、わたしたちの霊が必要です。わたしたちの全存在が、神との親密な交わりの中で神を愛することによって、神と一つになる時、神はわたしたちの霊の中に、彼の霊を通して、わたしたちの分け前であるキリストのあらゆる秘密を示してくださいます。これが、人の心に思い浮んだことのない、神の知恵によって計画された、キリストについての隠された事柄を啓示することです。
「探られる」のギリシャ語は、積極的な探求を意味し、発見によってではなく、探し求めて得られた正確な知識を暗示します。神の霊は、キリストに関する神の深みを探し求めます。そしてそれらを、わたしたちの霊の中でわたしたちに示し、認識させ、あずからせます。
「神の深み」とは、神の深い事柄を言います。それは、わたしたちの永遠の分け前となった、多くの面におけるキリストです。これは神によってあらかじめ定められ、備えられ、無代価で与えられたものです。これらの事柄は、人の心に思い浮んだこともないものでしたが、神の霊によって、わたしたちの霊の中で、わたしたちに啓示されています。ですから、わたしたちがそれにあずかるためには、霊的でなければなりません。わたしたちは、わたしたちの霊の中で動き、行動し、生きなければなりません。それは、わたしたちのすべてであるキリストを、享受することができるためです。
<抜粋>パンと魚