Ⅱヨハネ9, 9節のノート1, 3
「すべてキリストの教えを踏み越えて、その中にとどまらない者は、神を持っていません。この教えの中にとどまっている者は、御父と御子の両方を持っています」。
「キリストの教えを踏み越えて」とは、正しいものよりさらに先走って行く、キリストについての正統的な教えの限界を越えて進むことです。これは、キリストの教えの中に住むことと対比されています。キリストの教えに関する発展的考え方を誇っていたケリントスのグノーシス派の者たちは、これを実行しました。彼らはキリストの神聖な受胎の教えを踏み越えて先走り、こうしてキリストの神格を否定しました。ですから彼らは救いにおいて、また命において、神を持つことができませんでした。
神を持つことは、御父と御子の両方を持つことです。神が、わたしたちの享受と実際(ヨハネ一・一、十四)となるために、御父を伴う御子においてわたしたちに分与されたのは(Ⅰヨハネ二・二三)、受肉の手順を通してです。受肉された神において、わたしたちは贖いにおける御子を持ち、命における御父を持ちます。わたしたちはこうして贖われ再生されて、神と有機的に一となります。それは、わたしたちが救いにおいて、また命において彼にあずかり、彼を享受するためです。ですから受肉を否定することは、この神聖な享受を退けることです。しかし受肉の真理の中に住むことは、わたしたちの永遠の救いと神聖な命における分け前のために、神を御父と御子として持つことです。
<抜粋>パンと魚