わたしは今日、主の回復全体に対してとても負担を持っています。「わたしは、それを捕らえようと追い求めているのですが、それはわたしが、キリスト・イエスによって捕らえられている」ことを、新鮮に追い求めます。「捕らえよう」というのは、スーパーマーケットに行って、買い物カゴにあれやこれを入れるのとは、意味が違います。「捕らえよう」というのは、アスリート(スポーツ選手)のようです。アメリカンフットボールの、視野の広いWRワイドレシーバーが、QBクオーターバックからのボールを(キャッチしようとしているかの)追い求めているかのようです。「捕らえる」とは、全力で体を伸ばすこと、すなわち、あなたの指先まで、体全体を前に伸ばすことです。あなたの存在全体が、そのボールをつかみ、キャッチするためにそこにあるのです。わたしたちが主の回復の中で、キリストを獲得するために、このように体を前に向かって伸ばすべきではないでしょうか?(マタイ3:17.12:18.17:5)。
[2023年5月 メモリアルデー特別集会 メッセージ1]
マタイ3:17
すると見よ、天からの声が言った、「これはわたしの子、愛する者、わたしは彼を喜ぶ」。
マタイ12:18
「見よ、わたしが選んだわたしのしもべ、わたしの魂が喜ぶわたしの愛する者。わたしはわたしの霊を彼の上に置く.彼は異邦人に公義を告げ知らせる。
マタイ17:5
彼がまだ語っている間に、見よ、輝く雲が彼らを覆った.そして見よ、雲の中から声があって言った、「これはわたしの子、愛する者、わたしは彼を喜ぶ。彼に聞け!」。