神の建造の材料となるために、わたしたちは死におけるキリスト(いとすぎの木によって表徴される)、復活におけるキリスト(香柏の木によって表徴される)、その霊としてのキリスト(オリブの木によって表徴される)を経験する必要があります。十字架につけられ復活したキリストは、イエス・キリストの、すべてを含む霊であり、また手順を得た三一の神の臨在であって、召会を建造するための材料の実際です。この召会は神の宮、すなわち、キリストの拡大と拡張です(ピリピ1:19-21前半.Ⅰコリント3:9,12前半)。
[2022年7月定期訓練 メッセージ7 アウトラインより]
ピリピ1:19
というのは、あなたがたの祈り求めることと、イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給を通して、このことがわたしにとって救いとなることを知っているからです.
ピリピ1:20
そこで、わたしの切なる期待と希望は、わたしがどんな事にも恥じることなく、かえっていつものように、あらゆる事で大胆になって、生きるにも死ぬにも、今なおキリストが、わたしの体において大きく表現されることです。
ピリピ1:21
なぜなら、わたしにとって生きることはキリストであり、死ぬことは益であるからです。
Ⅰコリント3:9
なぜなら、わたしたちは神の同労者であり、あなたがたは神の耕された地であり、神の建物であるからです。