マタイ14:17-21, 17節のノート1, 19節のノート2-4, 20節のノート1
「彼らはイエスに言った、『わたしたちは五つのパンと二匹の魚のほか、ここに何も持っていません』。彼は言われた、『それをわたしの所に持って来なさい』。そして群衆に命じて草の上に座らせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、祝福し、パンをさいて、弟子たちに与えられた。そして弟子たちは群衆に与えた。彼らはみな食べて満腹した。そして、かけらの残ったものを集めると、十二の手かごいっぱいになった。食べた者は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった」。
ヨハネによる福音書第六章九節は、これら五つのパンが大麦のパンであることを告げています。大麦は、復活したキリストを予表します(レビ二三・十)。ですから大麦のパンは、わたしたちの食物としての、復活の中のキリストを象徴します。パンは植物の命からで、キリストの命の再生の面を象徴し、魚は動物の命からで、キリストの命の贖いの面を象徴します。わたしたちの霊的な飢えが満たされるためには、キリストの再生する命と贖う命の両方を必要とします。これら両面は、パンと魚という小さなものによって象徴されています。これは、天の王が、彼に従う者たちにこの時代に、偉大な王として彼らに君臨するためではなく、彼らを養う少しばかりの食物として来られたことを示します。
「天を見上げ」ることによって、天の王は、彼の源が天におられる彼の御父であることを示されました。
「パンをさいて」とは、わたしたちが主に持って行くものは何であれ、それが他の人への祝福となるためには、さかれなければならないことを示します。
パンは弟子たちからであり、彼らはそれを主に持って行きました。主によって祝福され、さかれた後、パンは弟子たちに戻され、群衆に配られました。そのパンは彼らにとって、大きな満足となりました。これは、弟子たちが祝福の源ではなかったこと、彼らは主に用いられた通路にすぎなかったこと、主こそ人々の満足の源であることを示します。
十二の手かごにいっぱいのかけらは、復活したキリストが無制限で無尽蔵であるだけでなく、わたしたちに対する主の備えが豊富であり、わたしたちのすべての必要を満たして余りがあることも、示しています。
<抜粋>パンと魚